コンラッド・メイリ

1895年、イタリア系スイス人としてチューリッヒに生まれる。

ジュネーブの美術学校で、フェルディナント・ホドラーに師事し、厳格なデッサンと美しい色彩感を身につけ、印象派の画家としてエコール・ド・パリの時代に活躍する。

1939年8月、日本の風物を油絵に描きヨーロッパに紹介するため、キクと共に3ヶ月の滞在予定で来日するも、二人は榛名丸の船上で第二次世界大戦の開戦を知る。

やがて彼は、鎌倉・長谷の障子に囲まれた畳のアトリエで、柔らかな日本の光を捉えながら油絵を描き、俳句を作り、日本の画学生達に油絵の技法を教え「メイリ先生」として慕われた。

その一方、画家としての円熟期を、貧困・差別・スパイ容疑による不当な投獄と過酷な運命と共に生き、1949年、ようやく帰国の途に就いた。

帰国後はレマン湖の西にあるアニエール村に暮らし、パリとジュネーブで絵画展を重ねる。

1969年に自宅で逝去。享年74歳であった。

キク・ヤマタ(山田菊)

1897年3月15日、フランスのリヨンで生まれる。

家族は当時日本領事だった父親山田忠澄とリヨンのレストランの娘であった母親のマルグリット、妹の花と弟の順太。

1908年、父親の本省勤務のため東京に移り、聖心女子学院に学ぶ。卒業後は通信社に勤めながら、能や生け花を修める。

1923年、母・マルグリットとパリに移る。

流暢なフランス語で日本文化について語るキクは、多数の作家や詩人たちが集まる文学サロンの常連となり「ラ・ジャポネーズ」と呼ばれ、文学界にデビューする。

1924年、ヴァレリーが序文を寄せた「Sur de levres Japonaises」(日本人の唇の上に)を出版すると、翌年、小説「Masako」(マサコ)で賞賛を受ける。

1927年「八景」、1929年「静御前」を共に藤田嗣治の挿絵で出版。

1931年、スイス・ヌシャテルへの取材旅行で出会った画家コンランド・メイリと結婚。

パリに暮らし、日本、スイスと移りながら、作家として日本や日本人をテーマに小説やエッセイを書き続け、画業一筋のメイリに寄り添い、献身した。

1975年3月12日、ジュネーブ近くの療養所で逝去。享年78歳であった。

ふなこしゆり

西洋骨董Pantagruelに勤務。アール・ヌーヴォーのガラスや家具を中心に修復を学び、空間や広告のデザインに携わる。

退社後、ユヌ・ポワール主宰。詩作の傍、文章、写真、音楽制作を行う。

1996年、メイリの弟子たちによる絵画展を手伝ったことをきっかけに、メイリの生きた戦中戦後を雑誌に寄稿。

メイリとかくちゃんとのエピソードは「1948年のスケッチブック」として出版される。

2人が描いた61枚の絵を鎌倉及び日本の遺産として未来に繋ぐ活動を続けている。


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